Nihilismus

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「偽ブランド品」を「パロディ」と紹介する謎

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最近、インスタを見ているともやもやする表現を見かける。

それはどう見ても「偽ブランド品」のアイテムを「パロディ」という表現を使って、紹介していること。

 

そもそもパロディとは、

文学作品の一形式。よく知られた文学作品の文体や韻律を模し、内容を変えて滑稽化・諷刺化した文学。日本の替え歌・狂歌などもこの類。また、広く絵画・写真などを題材としたものにもいう。(広辞苑より)

 と説明されている。そう、元から存在するものに何か手を加えて「滑稽化」すること。元からあるものをそっくりそのまま真似したものはパロディではなく、ただの偽物なのだ。

 

偽ブランド品が法律違反なのは言うまでもない。売ることはもちろん、買うことも処罰の対象となる。私は「偽物根絶を!」と主張したい訳ではない。そんなことは不可能だとわかっている。もちろん、デザイナーの意図やブランドの価値を貶める偽ブランド品がこの世から消えるに越したことは無いが。

 

偽ブランド品を買うことの罪悪感を薄めるような「パロディ」という言い回しが引っかかって仕方ないのである。こうして偽ブランド品がパロディと紹介されることで、日本人の間で「パロディ」という言葉への認識が変わってしまうのではないかとまで思ってしまう。

 

多くの人々の脳内にあるような「ブランド品」はほいほい買えるものではない。少なくとも私は。

お金を一生懸命貯めたり、何か他のものを我慢したり。何度もショップに足を運んだり、店員さんとの何気ない会話をいつまでも覚えていたり、買った後も大切に取り扱ったり。デザイナーの考えやブランドのコンセプトに共感して、欲しいと思ったり。簡単に買えるものではないからこそ、ひとつひとつの行動に思い出がある。

 

偽物にはこれらのステップが一切ない。そもそも、いくら精巧な偽物(何という言葉の矛盾)であっても、わかる人にはわかってしまう。写真で見ても質感が違うのがわかったり、展開されていない色があったり。ひょっとしたら購入する人はそんなことを一切わからず買っているのかもしれない。近頃、物事の質を評価する力が著しく低下しているように思ってしまう。果たして偽物を持って・着て、本物を取り扱っているショップに入れるだろうか。私は恥ずかしくて出来ない。

 

どうして偽物が売れ続けるのか。

ファッションに対する考え方が根本的に異なり、全く逆の方向を向いているのかもしれない。私がいくら努力しても理解出来ないであろう。